平成26年1月19日
茅ケ崎市役所分庁舎コミュニティホール
武村雅之さん「歴史から学ぶ防災論 関東大震災と茅ケ崎」講演メモ
・ 石碑に多いのは「あゝ9月1日」で,様々な思いが込められている.
・ 関東地震の余震は続けざまに,起こり10分くらいは揺れ続けていたと思われる.
・ 関東大震災の犠牲者は10万5千人余りで,火災の死亡者が9万2千人と大部分を占める.
・ 震源から離れた東京でなぜ大きな被害が出たかというと,隅田川の東部や日比谷の入り江などを埋め立てた土地に多くの人たちが住んでいた,いわゆる軟弱地盤上の地表が大きく揺れ,その人工密集地帯で木造家屋が倒壊し,火災が起きたことが原因である.
・ 火災は隅田川東部の軟弱地盤で発生し,多くの田舎者が江戸の掟を知らずに,大八車などで家財を持って避難した.誘導された場所は陸軍被服廠跡の広大な空き地であったため,多くの避難者は安心していた.そこで昼食を始めたところで,延焼によって火に包まれて一酸化中毒などで多くの人が亡くなった.もちろん,火災旋風の影響もあった.
・ 東京だけが,元禄地震のときに比べて,関東大震災の犠牲者が200倍にも増えているのは,元禄のときには人が住んでいなかった隅田川東部の湿地に,大正時代に多くの人が住むようになったことが原因と考えられる.
・ 震災予防調査会では,家財道具が延焼を促進し,犠牲者が増える原因になることは,江戸時代から広く知られ,その禁止を破ったものは罰するというお触れも出ていたが,東京に住み始めた地方出身者たちは,これを知らなかったために,家財を持ち出した.
・ この教訓を現代に置き換えれば,大八車は自動車に該当することになる.大人は財産があるなど,しがらみがあって逃げ遅れがちであるが,子供たちはその縛りがないので,素早く逃げる判断ができる.
・ 地震の後に,むやみに動くことは他人の迷惑になるばかりか,命を落とす危険すら増す.
・ 横浜公園でも東京被服廠跡と同様に多くに避難者が集まったが,家財道具をもっている人が少なかった.これは,揺れが強くて家財道具を持ち出せなったことと,関内では当時珍しいサラリーマンが多かったことによる.けっして,警察官の適切な指示誘導があったからではない(横浜市の公式文書では警察官が適切な指示を行ったためと記述されている).当時,横浜公園で看護に当った日高ていさん(ご存命)によると,加賀町警察は全く役に立た無ったと述懐している.
・ 朝鮮人の大量虐殺があったが,中には朝鮮人を日本の暴徒たちから守って感謝されている日本人が数名居ることがことが記念碑に残されている.このほかに,演者の上司であった鹿島建設の大磯工事事務所所長は,朝鮮人を出せと詰めかけてきた日本人たちに日本刀を抜いて朝鮮人労働者たちを暴徒から守ったと云う.
・ 茅ケ崎市内でも多くの石碑が残されているが,近隣の住民も,管理者もその存在を知らないことが多い.それは石碑が敷地の外に向かって建てられているためである.これは通りを往く人たちに見てもらうことを念頭に置いていたと思われる.
・ 柳島では良好な港であったが,隆起によって使えなくなり,当時松尾川を流れていた小出川の流路を付け替えた.
・ 馬入川にかかる橋も倒壊したが,京都と豊橋の工兵隊が仮橋を仮設したという碑が平塚側に立っている.
・ 江の島の聖天島は,震災後に隆起して本島と陸続きになった.
・ 江の島の橋は木造の貧弱なものだったので,台風などの度に流されていたため,島内の住民は日頃から備蓄をしていた.このため,大震災のときも橋が流されたが,島内は落ち着いていた.
・ 藤沢に残されている石碑には,大災害に見舞われるという試練は人を偉大にするということが記されている.
・ 日本の偉大な物理学者である寺田寅彦が,西洋では科学で自然を征服できるとして,科学技術が進んだが,日本の自然は西洋の自然とは異なり,とても厳しい.科学技術は単に我々に新たな多くの選択肢を提示してくれるだけである.選択するのは人間であり,その選択の仕方で災害を軽減することができる.
・ 地震(自然)が悪いわけではない,自然を正しく理解し,どう対処するかは人間次第である.天災は,人間の知恵で減災することができる.
高橋 一紀 記
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